性風俗は殺人産業である

自己決定権の観点からは、売血しようが売春しようが自己責任において自由である。「売る売らないは私が決める」のだ。しかし、それが他者を殺す結果をもたらすならば、他者の生きる権利の侵害であり、自己責任だの自由だの言っていられない。
AIDSやBSEの予防のため、血液の輸入は今後ますます制限される。もちろん国内でも売血で血液を集めることはできない。加えて少子高齢化により血液の需要に対し供給が減っている。血液需要のほとんどは50歳以上の高年齢層である。血液不足は深刻化し日本赤十字では対応に苦慮している。

http://blog.m3.com/Visa/20071227/1

95歳の男性、認知症のため施設に入っていた方が、肺炎を起こして入院した。

抗生剤治療を行い、一時回復に向かったように見えたが、黒色便が出て、Hb4.7と極度の貧血に至った。消化管出血による貧血と思われたが、呼吸状態が悪く、胃カメラなどの検査も危険で行えない状況だった。

息子さんと娘さんは輸血をしてほしいと言い、濃厚赤血球をオーダーした。3日間に分けて行う予定とした。

1日目は血液が届いたが、2日目は届かなかった。オーダーしたAB型の血液が不足しているという理由だった。

輸血製剤のオーダーをするとき、患者の年齢や重症度などは報告しない。この老人は95歳だから後回しにされたというわけではない。年齢に関係なく、若者で輸血を必要とする患者のところにも平等に血液が届かないということである。

95歳で死にゆこうとする老人に輸血を行うことに何の意味があるのだろう。昨日の血液が、未来のある若い患者のもとに行き渡ったら、助かる命があったかもしれない。

私は輸血製剤のオーダーを取り消した。そして、家族にそれを話した。

娘は泣き崩れた。

「お願いです。できるだけのことをしてください!」

95歳、認知症で施設に入っていた患者である。もう寿命とは思えないのだろうか。

できるだけの看護をしてくださいというのなら分かる。しかし、できるだけの治療をしなければならないのだろうか。

不足している医療資源を奪ってまで、95歳の老人の命を数日長引かせることに何の意味があるのだろう。

血液資源の絶対的な不足がカルネアデスの舟板そのもの状況を引き起こしている。一方を生かせば他方を殺す事態が現実に起っている。このような「究極の選択」に追い込まれたときにせざるを得ない「決定」とは、「処世術」なのであって、「倫理」ではない。そのような場面において、倫理は何ら効果を発揮しない。倫理はもっと手前において思考されるべきものなのである。そのような場面においては、ただ淡々と処世術を実行してしまうに過ぎない。

しかし、これをもって倫理を放棄するわけにはいかない。倫理とは、現実のただ中における、言い換えれば、現実を準拠枠とする中において、正しい指針を与えるようなものではないのだ。それは、現実そのものの変革を意味するべきものである。つまり、現実の準拠枠を広げる、もっと言えば、現在の枠を壊し新たに作り直すことこそを倫理は意味すべきだと私は考えるのである。ただ、それだけでは何も言っていることにはならない。現実の枠を、正義の方向にもっていくことこそが、倫理なのである。

性風俗を禁止しなければならない。血液不足をもたらすのは、輸入や売血の禁止、少子高齢化だけではない。性風俗を利用した者、あるいは性風俗で働いた者は「不特定多数と性的接触を持った」として、一年間献血が禁止される。その間、献血の意思があっても血液を提供できない。血液不足に関して性風俗の影響は小さいかもしれない。他にやるべきこも多いだろう。だが、現実の枠を少しでも正義の方向にもっていくために性風俗の禁止は避けて通れない。そして性風俗が生かすことができる命を殺してしまうこと、殺人産業であることを隠蔽してはならない。