医療と介護の充実にはネオリベ政策が必要

http://d.hatena.ne.jp/mojimoji/20080808/p1

 で、その場合に、「収入が足りないので医療や介護が買えません」を「収入が足りないのでベンツが買えません」と同じように扱うのであれば、つまり「死んでください」といっているのと同じですが、それはそれで首尾一貫しています。逆に、「死んでください」と言わないのであれば、同じように扱うわけにはいかず、「収入が足りない人には収入を足して、医療や介護を買えるようにする」ということになります。つまり、社会全体による「支払い」が足りない、課税と再分配が足りない、ということなわけです。これは私たちの社会的決定の問題です。

必要な人員を確保するためには、医療と介護にもっともっと税金を投入すべきである。それと同時に医療と介護以外の分野では、ネオリベ政策をとって、労働者を保護する規制を撤廃すべきである。最低時給の規制をなくし、外国人労働者を受け入れるべきだ。当然、医療と介護以外の分野の単純労働者は苛酷な状況に置かれるだろう。そして医療と介護の業務に従事さえすれば、十分な給与が支給され、まともな生活ができるようにしておき、人員が集まるよう誘導するのだ。
ネオリベ政策はベーシックインカムなどセイフティーネットと切り離せない。だが、セイフティーネットは手厚すぎてはいけない。ベーシックインカムは月5万円程度としておき、ルームシェアしなければ東京などで生活できない額が適当だ。「無能力批評」の著者である杉田俊介氏は文学研究者を志望していたが食って行けず、フリーターとして様々な職を経て、介護労働者となった。もし彼に一月20万円のベーシックインカムが支給されていたなら文学の研究を続け、介護労働者の道を選ばなかっただろう。
介護に携わる人間は頭数だけでなく、質も確保せねばならない。昨日まで釜ヶ崎で野宿していて耳に垢がたっぷり溜まった初老の男性などに、誰も介護されたくないのである。質の低い介護労働者は淘汰されねばならない。介護労働者は、利用者からの苦情の電話一本で解雇され、苦情で解雇された履歴が公的に記録され、二度と介護の仕事に就けない体制を整備すべきである。そして解雇された元不良介護労働者はネオリベ政策の元、苛酷な生活を送るのだ。

http://d.hatena.ne.jp/hokusyu/20080731/p2

そもそも、少しでも楽な仕事で少しでも多くの給料をというのはがんばった労働者に与えられる褒美ではなくて、労働者が持つ不可侵の権利なのですから

は利用者の立場からは言語同断である。

ボランティアという言葉について

ボランティアは有償、無償は関係なく自分から志願するという意味しかない。このブログで論じるセックスボランティア献血に倣って献春あるいはセックスドゥネイションと表記すべきかもしれない。河合香織さんの著書によりセックスボランティアという言葉が普及しているので、「無償のボランティア」などと表記した。

なぜ女性だけか

現状では、セックスボランティアは女性に対する需要が大きく、供給が少ない。男性に対する需要は小さく、供給は十分にある。また数少ない女性の志願者は周囲からの孤立や無理解に苦しんでいる。この現実を変えていくには学校教育において、全ての女性が一度はセックスボランティアに志願すべきと教え込む必要がある。障害者男性のためだけでない。数少ない女性志願者を生かすためでもある。
もし状況が変わって、男性に対する需要が大きく供給が少なく、女性に対する需要が小さく供給が多いなら、そのときは男性だけに教え込むことになるだろう。

性風俗は殺人産業である

自己決定権の観点からは、売血しようが売春しようが自己責任において自由である。「売る売らないは私が決める」のだ。しかし、それが他者を殺す結果をもたらすならば、他者の生きる権利の侵害であり、自己責任だの自由だの言っていられない。
AIDSやBSEの予防のため、血液の輸入は今後ますます制限される。もちろん国内でも売血で血液を集めることはできない。加えて少子高齢化により血液の需要に対し供給が減っている。血液需要のほとんどは50歳以上の高年齢層である。血液不足は深刻化し日本赤十字では対応に苦慮している。

http://blog.m3.com/Visa/20071227/1

95歳の男性、認知症のため施設に入っていた方が、肺炎を起こして入院した。

抗生剤治療を行い、一時回復に向かったように見えたが、黒色便が出て、Hb4.7と極度の貧血に至った。消化管出血による貧血と思われたが、呼吸状態が悪く、胃カメラなどの検査も危険で行えない状況だった。

息子さんと娘さんは輸血をしてほしいと言い、濃厚赤血球をオーダーした。3日間に分けて行う予定とした。

1日目は血液が届いたが、2日目は届かなかった。オーダーしたAB型の血液が不足しているという理由だった。

輸血製剤のオーダーをするとき、患者の年齢や重症度などは報告しない。この老人は95歳だから後回しにされたというわけではない。年齢に関係なく、若者で輸血を必要とする患者のところにも平等に血液が届かないということである。

95歳で死にゆこうとする老人に輸血を行うことに何の意味があるのだろう。昨日の血液が、未来のある若い患者のもとに行き渡ったら、助かる命があったかもしれない。

私は輸血製剤のオーダーを取り消した。そして、家族にそれを話した。

娘は泣き崩れた。

「お願いです。できるだけのことをしてください!」

95歳、認知症で施設に入っていた患者である。もう寿命とは思えないのだろうか。

できるだけの看護をしてくださいというのなら分かる。しかし、できるだけの治療をしなければならないのだろうか。

不足している医療資源を奪ってまで、95歳の老人の命を数日長引かせることに何の意味があるのだろう。

血液資源の絶対的な不足がカルネアデスの舟板そのもの状況を引き起こしている。一方を生かせば他方を殺す事態が現実に起っている。このような「究極の選択」に追い込まれたときにせざるを得ない「決定」とは、「処世術」なのであって、「倫理」ではない。そのような場面において、倫理は何ら効果を発揮しない。倫理はもっと手前において思考されるべきものなのである。そのような場面においては、ただ淡々と処世術を実行してしまうに過ぎない。

しかし、これをもって倫理を放棄するわけにはいかない。倫理とは、現実のただ中における、言い換えれば、現実を準拠枠とする中において、正しい指針を与えるようなものではないのだ。それは、現実そのものの変革を意味するべきものである。つまり、現実の準拠枠を広げる、もっと言えば、現在の枠を壊し新たに作り直すことこそを倫理は意味すべきだと私は考えるのである。ただ、それだけでは何も言っていることにはならない。現実の枠を、正義の方向にもっていくことこそが、倫理なのである。

性風俗を禁止しなければならない。血液不足をもたらすのは、輸入や売血の禁止、少子高齢化だけではない。性風俗を利用した者、あるいは性風俗で働いた者は「不特定多数と性的接触を持った」として、一年間献血が禁止される。その間、献血の意思があっても血液を提供できない。血液不足に関して性風俗の影響は小さいかもしれない。他にやるべきこも多いだろう。だが、現実の枠を少しでも正義の方向にもっていくために性風俗の禁止は避けて通れない。そして性風俗が生かすことができる命を殺してしまうこと、殺人産業であることを隠蔽してはならない。

セックスボランティアの可能性

かつて輸血用血液のほとんどは売血によってまかなわれていた。売血により集められた血液は、赤血球が少ない、肝炎ウィルスに汚染されているなど品質が低かった。血液の品質低下の問題は売血により血液をあつめる限り解決できなかった。やがて売血は禁止され、血液は無償の献血のみになった。

売春は売血同様に伝染病を蔓延させる。性病蔓延の問題は売春により性的サービスを提供する限り解決できない。売春を禁止して、性的サービスの提供を無償のボランティア(献春?)のみにしなければならない。売血が禁止されたのに、売春がソープランド等の形で生き残っているのは、女性を金銭で思いどおりにしたい男性の価値観が社会を支配しているためである。

恋愛や結婚における性行為を除いた性的サービスの提供が無償のボランティアのみになり、性的サービス提供の相手が健常者、障害者の区別がなかったら、どうなるだろうか? その場合、障害者が健常者より優先されるだろう。障害者が性の悦びを得られないのは本人に責任の無い理由によるところが大きく、健常者が性の悦びを得られないのは本人の自己責任であるのだから。

売春、性風俗が禁止され、恋愛や結婚における性行為を除いた性的サービスの提供がセックスボランティアのみになり、障害者が性の悦びを満喫する。そんな世界を実現しなければいけない。今、我々が生きる世界は障害者を排除、抹殺し、健常者男性が女性を金銭で支配し強姦する世界である。

今、我々が生きる世界において、金銭を得るために売春する女性に対して、セックスボランティアを志願する女性は少ないだろう。学校教育の保健体育や道徳の授業において、セックスボランティアについて教え込むことが必要である。この世界に障害者という違った身体を生きる者がいて、彼らに性の悦びを得る権利があること、得られないことに本人に責任の無い理由が大きいこと、全ての女性は一度はセックスボランティアを志願すべきであることを教え込む必要がある。

「生の無条件の肯定と「境界線の正義論」」の「境界線の正義論」

http://d.hatena.ne.jp/x0000000000/20071218/p1
>君は、死に面して「助かりたい。助けてくれないのは不正だ」と言ってはいけないのだ。

これは生の無条件肯定ではないなあ。過去に自己責任論者だった者が死に面して「助かりたい。助けてくれないのは不正だ」と言うのは矛盾だが、矛盾を言ってもいいのだ。「あんたの言ってることは矛盾だよ」と指摘しつつも十全に生きることを支援する、これが生の無条件肯定というものだ。過去の思想によって、自分の考えに賛成するかしないかによって境界線を引く正義など、生の無条件肯定とは言わない。
自己責任論者は福祉の基盤を破壊し、その結果、介護者不足などの事態を招くかもしれない。それでも介護者の派遣において自己責任論者だった者が差別されてはならない。生の無条件肯定を正義とする体系は自己責任論者だった者を差別する調停を行わない。不足する介護者の派遣では、くじ引きか先着順などの調停がなされるだろう。このとき福祉拡充一筋に頑張ってきた者が自己責任論者だった者より後回しになるかもしれない。この帰結を生の無条件肯定の体系を選んだものは受け入れなければならない。自分だけ蚊帳の外ということは許されない。